或る阿呆鳥に呟く。

~ジュニアテニス、映画、雑記、何でもありの備忘録〜

【雑記】ASKA再逮捕〜栄光・崩壊・再起、そして崩壊〜

少し前の話で恐縮である。先日、チャゲ&飛鳥のASKAが覚せい剤の使用容疑で2度目の逮捕となり、私は「またか」と呟いてしまった。連日連夜、ニュース番組では昔のライブの映像や楽曲が流されていた。我々の心を惹きつける彼の姿(映像)からはミュージシャンとしてのカリスマ性を感じざるを得ない。心から音楽を愛していたのだろう。

しかし、先般マスコミが報道したASKAの逮捕前の様子は我々を心底悲しませた。それは盗聴・盗撮などの妄想を示唆する言動で人間として壊れてしまっていたからだ。私は「壊れる」という表現はとても残酷だと思う。この言葉のニュアンスには何故だか完全には元に戻らない現実を突きつける冷たさがある。きっと覚せい剤や麻薬で壊れてしまった人間の頭は本当の意味で治らないのだろう。ASKAだってそうかも知れない。

テレビ番組などで過去に覚せい剤を使用した人間がインタビューに答えている姿を見ると呆れてしまう。それは彼らの殆どは薬物依存の元凶は「薬」として、自分は完全なる被害者であると信じているからだ。覚せい剤の呪縛は解けることがない。彼らは一生薬のせいにして何事からも逃げて壊れた頭で人生を歩み続けることになる。そして、マスメディアによって見世物にされてしまうのだ。

覚せい剤で人間(人格)が壊れる事は明白だ。でも、まだASKAの再起を信じている自分がいる。普通じゃない。まともな人間ならば1度でも覚せい剤に手を染めた人間を許せるはずがないからだ。そして、人の道を外れたものはそれ相応の社会的制裁を受けるべきだと声高々に叫ぶはずだろう。しかし、何故だかASKAの再起を期待する自分がいるのだ。これは、きっと私だけではない。多くの人が彼の歌声を聞きたいと願っているはずだ。

今回、ASKAに対するマスコミの対応が物議を醸した。それは逮捕前の突撃取材の際にASKA本人の車のエンブレムをへし折り、ボンネットに傷を付けるなどの行き過ぎた行為が視聴者から反感をかったのだ。この姿は海外の過激で低俗なパパラッチを彷彿とさせた。芸能人やミュージシャンのスクープは金になるため、取材対象への接触は強引になりがちだ。この姿が金に群がっているように見えてしまうため「マスゴミ」と揶揄される。

でも、こんな報道を正義とするのなら本当に「マスゴミ」に成り下がってしまうと危惧するのは私だけではないだろう。じゃ。

 

byアホウドリ

【雑記】ゾンビに恋せよ!ウォーキング・デッドのススメ。

ゾンビなんて大嫌いだ。多分、貴方はそう思っているだろう。その気持ちはよく分かる。何故って?私もそうだったから。ゾンビ、クサソウ、キタナイ、キンモーだったのだ。

しかし、今回は年末年始に観るべき海外ドラマとして敢えてゾンビドラマ「ウォーキング・デッド」を勧める事にした。つまらない日常に不満を抱きつつも何となく生きてしまっている貴方へ捧げる正統派ゾンビドラマである。

もちろん、今流行りの覚せい剤と比べると刺激も中毒性も控えめ、そして何より合法的なのでご安心頂きたい。

 

まずシーズン1の粗筋をご紹介しよう。ある日、保安官のリックは逃走中の犯人に撃たれて意識不明の昏睡状態に陥ってしまう。次に彼が目覚めたとき世界は破綻し「ウォーカー」と呼ばれる死者たちが徘徊していた。世界で何が起きているのか、そして愛する家族は無事なのか。

 

そもそも何故、ゾンビが登場する作品は嫌われるのだろうか。それは目玉や内臓がビョーンと飛び出たり、血がプッシャーと吹き出たりする過剰な演出のせいだろう。そして、そんな演出にこだわり過ぎた結果、本来力を入れるべき人物描写などのディテールが中途半端になり全体的なクオリティが低くなってしまっている作品が多いからだと思う。本作は嫌われ者(ゾンビ)をメインに据えているが、決してクオリティは低くなく、寧ろ私はゾンビに恋をしてしまった。本当に恐ろしいのは人間の方だと気付かされてしまったのだ。

正直者が馬鹿を見る、こういった極端な切り口は日本ドラマにない持ち味だと思う。日本ドラマの場合は丸く納める想定内のラストが多いが、本作は正義が死んだ世界が舞台なのでそもそも土俵が違うのだ。視聴者に媚びるドラマは不自然なキャラクタ設定や言動、ギャグなどで逃げ場を作ってしまいがちであるが、ウォーキング・デッドは違った。目を背けたくなるような描写がある、しかし本当に怖いのは目に見えない人間の闇の部分だろう。それを感じさせる巧さ。

この作品からは「生きる価値が有るか無いかは己の行動で決まる」という強いメッセージを感じた。それは善や悪、性別、宗教、ありとあらゆるものが一瞬で消えてしまう現実の厳しさをガッツーンと叩きつけてくる乱暴さにある。忘れていた現実の不条理さを思い出したのだ。

登場人物の中には悪に手を染めてでも大切な人を守る強い意志を持っている者もいる。これは平和な現代(特に日本)ではありえない思考なのかもしれないが本作の荒廃した世界では正義に近いものがあるのだ。我々は秩序で守られた世界で生きている、だから秩序に反する行為をしてはいけない事が当たり前とされている。しかし、この世界ではどうだろうか。生きるために殺す、人間がダークサイドに落ちる様があまりにも見事だ。そして、主人公が必ずしも最良のリーダとして描かれていない部分が素晴らしい。主人公たちが極限の状態で下す判断、それは正解か間違いか。それは貴方自身の目で確かめて頂きたい。

一話見終わった後、次の一話に手を伸ばしてしまう自分がいた。中毒性のあるドラマなので気をつけて頂きたい。

年末年始に観るべき海外ドラマは「ウォーキング ・デッド」で決まりだ。じゃ。

 

byアホウドリ

 

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【映画】漫画は日本が世界に誇る文化だ「バクマン。」感想

 

今や漫画は日本の文化だ。映画「バクマン。」はそんな漫画に青春のすべてを賭けた高校生たちのドラマである。キャストを一見すると佐藤健や神木隆之介などの今をときめく若手俳優を起用しており、汗と涙が飛び散る爽やかな学園ドラマを彷彿とさせる。しかし、違った。この映画で繰り広げられるのは爽やかな学園ドラマからはほど遠い、漫画家として生きる道を選んだ高校生たちの戦う姿だった。「努力・友情・勝利」をモットーに高校最後の大勝負が始まる。

これは漫画家へ贈る最大限のオマージュだ。日本人のみならず海外の人にもオススメしたい作品である。

 

あらすじ

優れた画力を持ちながら将来の展望もなく毎日を過ごしていた高校生の真城最高(佐藤健)は、漫画原作家を志す高木秋人(神木隆之介)から一緒に漫画家になろうと誘われる。当初は拒否していたものの声優志望のクラスメート亜豆美保への恋心をきっかけに、最高はプロの漫画家になることを決意。コンビを組んだ最高と秋人は週刊少年ジャンプ連載を目標に日々奮闘するが……。

 

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漫画家のリアルな生活を描く一方、CGやスタイリッシュな音楽を使った表現が我々を不思議な世界に誘う。例えば、ライバルとの駆け引きを擬似的なアクションとして挿入する事で、観ている人の視覚(目)を通して(彼らが)競り合っている印象を植え付けるのだ。そうする事でよりダイレクトに思考や感情が伝わってきた。漫画の映画化は当たり外れが大きいが映画「バクマン。」は大当たりだ。

 

そして、もうひとつ魅力的なものがある。それはサカナクションが担当する音楽である。私自身がサカナクシャンの大ファンである事を差し引いたとしてもとても良く出来ており、シーンにあった効果的な演出がなされている。例えば、漫画を描く事を題材にした映画らしくペンを走らせる音が徐々に音楽になっていく、こういった遊び心のある表現が映画をより一層盛り上げているのだ。ボーカルの山口一郎氏は楽曲提供するにあたりかなり苦労したらしいが、その甲斐あって正に映画と音楽が一つになっていた。この辺りを意識して観てみると更に映画が楽しくなるかもしれない。漫画を描くというアナログな行為すらポップな雰囲気に表現する事でひと味もふた味も違う完成となっていた。是非、音楽を気にして欲しい。

 

映画としての見せ方が巧く時間を忘れさせてくれる。特に原作(漫画)と映像、そして音楽の異常なまでのシンクロが新しい日本映画の可能性を感じさせてくれる作品であった。日本の漫画の素晴らしさだけでなく、日本の映画の素晴らしさが伝わる作品なので是非観て頂きたい。じゃ。

 

PS.少年ジャンプを読んでいた人はより身近に感じるだろう。ジャンプは偉大なり。

 

byアホウドリ

【雑記】そば湯飲まない論

先日、はてな匿名ダイアリーに「そばの茹で汁(ゆでじる)を平気で飲む彼氏」というタイトルの記事が投稿された。内容を要約すると「彼氏がそばの茹で汁を飲んでいた。茹で汁ごときを健康に良いからといって平然と飲むなんて信じられなーい」という事になる。これに対してネット民からは「そば湯も知らないのか」「それぐらいで人を信じられなくなるものなのか」「まともなそば屋に入った事がないのか」など様々な意見が飛び交っている。やれやれ。

何を隠そう私は「そば湯を飲む派」だ。しかも、出されたそば湯は何だかんだで全て飲み干してしまう程のそば湯大好き人間なのである。だから、そばをオーダーしたのに〆のそば湯が出て来なかったらガッカリしてしまう。もし私がマイウーとか言いながら喜んでそば湯を飲んでいる姿をこの女性が見れば「コイツ、茹で汁飲んでるよ。しかも、全部。キンモー」となるのである。いと嘆かわしい。確かに西日本と東日本、所変われば食も変わる。西日本は東日本に比べるとそば湯を飲む習慣が薄いとされる。しかし、所詮小さな島国・日本である。因みに私は西日本出身だ。もし、本当にこの記事を投稿した女性が「そば湯の存在を知らない」のであれば教えてあげたい。なかなか美味いぜと。

私は知らない事を知らないと告白する事は恥ずかしい事ではないと思っている。しかし、この手の炎上の原因は自分が知らない事を感覚だけでネットに投稿してしまう軽率な行動にある。少し前の話だが日本電気を「町の電気屋」と揶揄(勘違い)した女性の呟きが話題となった。彼女もまた日本電気がNECとは知らず軽はずみな投稿をしてしまったのだ。ネットは一言で多くの人に伝わってしまう怖さがある。仮に今回の件やNECの件を友達に口頭で話していたら大きな反響を呼ぶこともなく終わっていただろう。これはネットでブログを書きツイッターで罵詈雑言を吐き出しているナウでヤングな私自身も気を付けなければならない。明日は我が身。

さて、本題のそば湯についてであるが、私は飲めとは決して申し上げない。確かに「そば湯の中には溶け出た栄養が含まれている」「一口飲めばその店の実力がわかる」など、様々な意見はあると思う。しかし、私のスタンスとしては飲みたきゃ飲めである。あまり他人のテリトリーに深入りするつもりはない。しかし、飲んだ事がない人は是非飲んで欲しい。美味しいから。

これ以上、そばの「茹で汁ごとき」でネットを荒立てるのは止しとしよう。じゃ。

 

byアホウドリ

【映画】めんどくさいから殺していい?「ヒメアノ〜ル」(R15)感想

原作(漫画)は読んでいない。主演の森田剛が素晴らしいとの評判だったので観たかった作品だ。遂にDVDで観る事が出来たので所感を記す。

 

あらすじ

普通の生活に焦燥感を抱くビル清掃会社のパートタイマー岡田(濱田岳)は、同僚からカフェの店員ユカ(佐津川愛美)との恋の橋渡し役を頼まれる。彼女が働くカフェへと足を運んだ岡田は、高校時代の同級生・森田(森田剛)と再会。ユカから森田につけ狙われ、ストーキングに悩まされていると相談された岡田は、森田がかつていじめられていたことを思い出し、不安になるが……。(「シネマトゥデイ」より)

 

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当方、ジャニーズが主演している映画には過大な期待をしないようにしている。それは演技力云々の話ではなく彼らには暗黙のルールとして「超えられない一線」があったからである。ジャニーズが演じる殺人者はクレバーで美しく表現され過ぎており殺人者としての狂気が霞んでしまっている事が多かった。また、必要以上に哀しい過去や同情を誘うエピソードを混ぜ込む事で「本当は悪くない」ような描写が多かった事も苦手なところだった。ジャニーズ流の見せ方といってしまえばそれまでだが、それは私が求めている映画や演技ではなかったのだ。しかし、この森田剛はその一線を遥かに超えていた。この映画で彼が見せた秩序を微塵も感じさせない素行や言動は煌びやかなステージで見せるV6としての顔からは程遠く文字通りクズである。もちろん、これは最大限の褒め言葉として受け止めて頂いて結構だ。

そして、暴力や殺人、レイプなどの犯罪に縁がない青年を演じるは濱田岳。夢も希望もない今時の若者感が良い。社会で疲弊し自分の不遇を自虐的に語る濱田の姿は自分自身と重なる人も多いと思う。普通の人間ならば森田ではなく浜田の方に共感を持つだろう。だからこそ、森田の異常な行動が際立ち観ているものを掴んで離さない。森田の対極に濱田を起用したのは最高だった。

また、忘れてはいけないのがムロツヨシ。最近、バラエティに多数出演し人気上昇中の彼だが、この作品でも目が話せない存在であった。無駄にポジティブ、無駄にアクティブ、そして無駄に正義感の強い彼の姿は主演の2人を飲み込む存在感があった。この狙っても出せるようなものではないキモさは演技を超えた彼本人のオーラではないか。これも褒め言葉である。

異常な森田剛と普通の濱田岳、そしてキモいムロツヨシが映画を引っ張っているのである。面白くない訳がない。

 

粗筋は何処かで聞いた事があるような印象を受けるが、個人的にはキャラクタありきの映画だと思うので、無理やり紆余曲折を混ぜ込む展開にせず、構成を分かりやすくした事は評価したい。しかし、ミステリィが好きだからという理由だけで本作を観ようとするのは止めた方が良さそうだ。推理的な要素は皆無で過度のバイオレンスなシーンがある。その事を念頭に置き鑑賞願いたい。

 

序盤の緩やかな展開から一変、中盤から終盤にかけては怒涛の森田ラッシュだ。レビュなどでシリアルキラーやサイコパス、快楽殺人者などの表現をされているが実のところ特別な印象はない。寧ろ特別な感じがしないからこそ感じる日常に潜む狂気があった。

この映画は分かりやすい。見た感じ普通の人が実は殺人者だったのではなく見た目からして危なそうな奴が殺人者なのだ。この当たり前感が「ヒメアノ〜ル」の怖さなのかも知れない。内面は外面に現れるのだろう。じゃ。

 

byアホウドリ

5年後の自分へ 〜ロックに生きろ〜

年、それは何かが変化するのに十分な時間だと思う。それまで不可能だった事が可能になるだけではなく、可能だった事が不可能にもなる。例えば赤ちゃんは歩けるようになるが、その一方で老人は歩けなくなる。

を重ねる事で起こる変化は良い事ばかりではない。病気が治る人がいる一方で病気になる人だっている。生まれる命がある一方で終わる命もある。

活が一変した出来事がある。以前ブログでも書いたが、私は頭に爆弾を抱えている。未破裂脳動脈瘤。脳の血管に血流が溜まりやすい所(瘤)がある。その部分(の血管)は引き伸ばされ薄くなっているので破れやすくなっているのだ。これが何かの拍子に破裂してしまうとかの悪名高い「くも膜下出血」を引き起こし3分の2の確率で社会復帰が困難になってしまう。だから、私はリスキーな日々を送っており5年後の未来なんて想像もできない。なんて自虐をするつもりはない。

レイ事かも知れない。しかし、未破裂脳動脈瘤の発見以後、それまで出来なかった事が出来るようになった。病気が発見された当初は日常生活に制限がかかると思っていたのに、寧ろ出来なかった事が出来るようになったのだ。これには少し矛盾や皮肉のような違和感があって面白い。でも、本当なのだ。大病を患った事のない人は頭のどこかで自分は元気に生き続けると思っている。私だってそうだった。でも、医者に面と向かって「貴方の頭には未破裂脳動脈瘤があり破裂すれば命を落とす可能性があります」と言われたとき、そんな甘い考えは消し飛び夢から目が覚めた。何故、自分なのだろうと。でも、当時の私は「こんなにも不摂生な生活をしているのに何故病気にならないんだ」と何処か頭の片隅で思っていた。だから、病気が発見されて納得してしまったのかも知れない。

その後、食生活から生活習慣を見直して脳以外の所は以前より健康な状態になっている。そして有意義な毎日を送っている。だから、5年後の自分に以下のメッセージを送りたい。

 

ックな日々を送っている5年後の私へ。君の頭の爆弾は破裂していないかい?もし健在ならば5年後の私へ同じメッセージを送って欲しい。もう、5年頑張ってみようぜと。じゃ。

 

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

【雑記】芸術に安全管理の概念はない

先日、痛ましい事故が起きた。東京・明治神宮外苑で行われたイベント「東京アートウィーク」の展示物(芸術作品)が炎に包まれて5歳の男の子が亡くなった。この展示物は木製でジャングルジムのような形をしており中には「木くず」が絡めつけられているものだった。火災は展示物の木くずに照明用のライトの熱が伝わり発生した。当初、展示物の照明にはLEDライトが使われる予定であったが事故当時は高温を発する「白熱電球」が使われていたそうだ。

 

同じ年頃の男の子を持つ親として本当に辛い事故だ。父親は自分の子供が炎に包まれる姿を見てどう思ったのだろうか。恐らく自分自身が焼かれるような気分だったのではないか。想像するだけでも辛い。心からご冥福を申し上げたい。

 

芸術は頭の中で浮かんだイメージを現実世界で表現しなければならない難しさがある。作り手からすれば殆どの場合、完成した作品はかなり妥協した結果だろう。無限の可能性がある創造と有限の資材で作る現実とのギャップが埋まる事はない。この辺りが芸術の奥深さだと思う。

そんな芸術作品に完全な「安全管理」を求める事は難しく、芸術作品と安全管理は対極に位置するものなのかも知れない。こう書くと芸術作品が危険なものと言っているように聞こえるかも知れないが、決してそんな事を言うつもりはない。ただ、芸術作品は安全管理の観点から見るとどうしても足りていない場合が多い。例えば今回の事故に関しても尖った部分がないかなどの規定を設けて安全性のチェックをしていたようだが、本来使うはずではなかった白熱電球を使って最悪の惨事を引き起こしている。これで安全管理をしていたといえるのだろうか。作り手は展示物を期間中に主催者の許可なく変更できないなどの規定も必要だったのではないか。もし、この規定があるのであればそれを作り手に周知させる事も安全管理の一環といえるだろう。

何処となく芸術には「安全管理の概念」を希薄に感じさせる響きがある。作品を安全に見せる事は主催者側の責任だとは思うものの、芸術作品には作り手にしか理解できない想いが込められている。要するに芸術作品は周りがとやかく指摘したり変更させずらい雰囲気を持っているのだ。他人からデザインや構造そして素材を変更される事で本来の意味を失ってしまうからだろう。

 

さっき何気なく息子の玩具を手にとってみた。じっくりと見てみるとそこに隠されている安全管理のアイデアに驚かされる。

この安全管理のなされた玩具こそ本当の芸術だと思う。じゃ。

 

byアホウドリ