或る阿呆鳥に呟く。

~ジュニアテニス、映画、雑記、何でもありの備忘録〜

【雑記】自分は何から産まれたのだろうか、と疑問に思う。

哲学的な話ではない。ただ、自分は何から産まれたのだろうか、と思うことがある。そりゃ母親だろう、とお思いの方、大正解だ。父と母がいてこそ子は生まれる。こんな事、子どもだって知っている事実だ。私だってそう考えていた、母親が亡くなるまでは。

私の母親は数年前に病気で他界した。そのとき、純粋に「母親がいなくなった」ことを悲しむ感情と、「自分の出生を証明する人がいなくなってしまった」という喪失感に似た感情が生まれた。前者の悲しむ感情は時の経過とともに癒えて来ている(恐らく受け入れているのだろう)が、後者の感情は日に日に強くなっている気がする。夜、ベッドに潜り込み、静寂の中でふと考えてしまうのだ。私は何者だろうか?と。

因みに私の父親は健在だ。しかし、どうも自分の産まれた場所(母体)がなくなってしまったという事実は、妙な違和感があり、突然自分の存在が不確かになってしまったような気さえするのだ。何というか母親の存在は「故郷」のようなものなのかも知れない。それがなくなると、完全なる異国の地に迷い込んでしまったような不安な気持ちが発生するのだと思う。

 

親子の縁を切る。私から言わせれば、親子の縁は切らなくても切れる、だ。結局は親か子の何方かが先にいなくなるのだ。だから、親が子を殺す、子が親を殺すような事件を見ると、どんな理由があるにせよ途轍もない残念な気持ちになる。別に縁を切りたくなくても、切れてしまうような場合だってあるのだから。

 

死後の世界。私はそれを信じていない、だから墓の前で手を合わせることにも違和感を感じていた。しかし、人は手を合わすことで故人(親)との縁を保とうとしているのかもしれない。母親が亡くなってからは、少しだけ墓の前で手を合わせる人の気持ちがわかったような気がする。

 

血は水よりも濃い。言い得て妙だろう。でも、決してそれだけが正しいとは限らない。実際、人は見ず知らずの赤の他人と出会い、恋愛・結婚し、子どもを授かる。例え本当の自分の子ではなくても(血は繋がっていなくても) 、本当の親子以上に親子にだってなりうる。本当に不思議だ。

 

最後。さて、話は脱線しつつあるので元に戻そう。自分の子供を見ていて気が付いたことがある。それは「自分は何から産まれたのだろうか」と悩むのではなく、「自分は何に向かって生きていくか」と未来を見据えて生きていくことが大切なんだと。たまには過去も振り返るけどね。じゃ。

 

byアホウドリ