或る阿呆鳥に呟く。

~ジュニアテニス、映画、雑記、何でもありの備忘録〜

【雑記】そば湯飲まない論

先日、はてな匿名ダイアリーに「そばの茹で汁(ゆでじる)を平気で飲む彼氏」というタイトルの記事が投稿された。内容を要約すると「彼氏がそばの茹で汁を飲んでいた。茹で汁ごときを健康に良いからといって平然と飲むなんて信じられなーい」という事になる。これに対してネット民からは「そば湯も知らないのか」「それぐらいで人を信じられなくなるものなのか」「まともなそば屋に入った事がないのか」など様々な意見が飛び交っている。やれやれ。

何を隠そう私は「そば湯を飲む派」だ。しかも、出されたそば湯は何だかんだで全て飲み干してしまう程のそば湯大好き人間なのである。だから、そばをオーダーしたのに〆のそば湯が出て来なかったらガッカリしてしまう。もし私がマイウーとか言いながら喜んでそば湯を飲んでいる姿をこの女性が見れば「コイツ、茹で汁飲んでるよ。しかも、全部。キンモー」となるのである。いと嘆かわしい。確かに西日本と東日本、所変われば食も変わる。西日本は東日本に比べるとそば湯を飲む習慣が薄いとされる。しかし、所詮小さな島国・日本である。因みに私は西日本出身だ。もし、本当にこの記事を投稿した女性が「そば湯の存在を知らない」のであれば教えてあげたい。なかなか美味いぜと。

私は知らない事を知らないと告白する事は恥ずかしい事ではないと思っている。しかし、この手の炎上の原因は自分が知らない事を感覚だけでネットに投稿してしまう軽率な行動にある。少し前の話だが日本電気を「町の電気屋」と揶揄(勘違い)した女性の呟きが話題となった。彼女もまた日本電気がNECとは知らず軽はずみな投稿をしてしまったのだ。ネットは一言で多くの人に伝わってしまう怖さがある。仮に今回の件やNECの件を友達に口頭で話していたら大きな反響を呼ぶこともなく終わっていただろう。これはネットでブログを書きツイッターで罵詈雑言を吐き出しているナウでヤングな私自身も気を付けなければならない。明日は我が身。

さて、本題のそば湯についてであるが、私は飲めとは決して申し上げない。確かに「そば湯の中には溶け出た栄養が含まれている」「一口飲めばその店の実力がわかる」など、様々な意見はあると思う。しかし、私のスタンスとしては飲みたきゃ飲めである。あまり他人のテリトリーに深入りするつもりはない。しかし、飲んだ事がない人は是非飲んで欲しい。美味しいから。

これ以上、そばの「茹で汁ごとき」でネットを荒立てるのは止しとしよう。じゃ。

 

byアホウドリ

【映画】めんどくさいから殺していい?「ヒメアノ〜ル」(R15)感想

原作(漫画)は読んでいない。主演の森田剛が素晴らしいとの評判だったので観たかった作品だ。遂にDVDで観る事が出来たので所感を記す。

 

あらすじ

普通の生活に焦燥感を抱くビル清掃会社のパートタイマー岡田(濱田岳)は、同僚からカフェの店員ユカ(佐津川愛美)との恋の橋渡し役を頼まれる。彼女が働くカフェへと足を運んだ岡田は、高校時代の同級生・森田(森田剛)と再会。ユカから森田につけ狙われ、ストーキングに悩まされていると相談された岡田は、森田がかつていじめられていたことを思い出し、不安になるが……。(「シネマトゥデイ」より)

 

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当方、ジャニーズが主演している映画には過大な期待をしないようにしている。それは演技力云々の話ではなく彼らには暗黙のルールとして「超えられない一線」があったからである。ジャニーズが演じる殺人者はクレバーで美しく表現され過ぎており殺人者としての狂気が霞んでしまっている事が多かった。また、必要以上に哀しい過去や同情を誘うエピソードを混ぜ込む事で「本当は悪くない」ような描写が多かった事も苦手なところだった。ジャニーズ流の見せ方といってしまえばそれまでだが、それは私が求めている映画や演技ではなかったのだ。しかし、この森田剛はその一線を遥かに超えていた。この映画で彼が見せた秩序を微塵も感じさせない素行や言動は煌びやかなステージで見せるV6としての顔からは程遠く文字通りクズである。もちろん、これは最大限の褒め言葉として受け止めて頂いて結構だ。

そして、暴力や殺人、レイプなどの犯罪に縁がない青年を演じるは濱田岳。夢も希望もない今時の若者感が良い。社会で疲弊し自分の不遇を自虐的に語る濱田の姿は自分自身と重なる人も多いと思う。普通の人間ならば森田ではなく浜田の方に共感を持つだろう。だからこそ、森田の異常な行動が際立ち観ているものを掴んで離さない。森田の対極に濱田を起用したのは最高だった。

また、忘れてはいけないのがムロツヨシ。最近、バラエティに多数出演し人気上昇中の彼だが、この作品でも目が話せない存在であった。無駄にポジティブ、無駄にアクティブ、そして無駄に正義感の強い彼の姿は主演の2人を飲み込む存在感があった。この狙っても出せるようなものではないキモさは演技を超えた彼本人のオーラではないか。これも褒め言葉である。

異常な森田剛と普通の濱田岳、そしてキモいムロツヨシが映画を引っ張っているのである。面白くない訳がない。

 

粗筋は何処かで聞いた事があるような印象を受けるが、個人的にはキャラクタありきの映画だと思うので、無理やり紆余曲折を混ぜ込む展開にせず、構成を分かりやすくした事は評価したい。しかし、ミステリィが好きだからという理由だけで本作を観ようとするのは止めた方が良さそうだ。推理的な要素は皆無で過度のバイオレンスなシーンがある。その事を念頭に置き鑑賞願いたい。

 

序盤の緩やかな展開から一変、中盤から終盤にかけては怒涛の森田ラッシュだ。レビュなどでシリアルキラーやサイコパス、快楽殺人者などの表現をされているが実のところ特別な印象はない。寧ろ特別な感じがしないからこそ感じる日常に潜む狂気があった。

この映画は分かりやすい。見た感じ普通の人が実は殺人者だったのではなく見た目からして危なそうな奴が殺人者なのだ。この当たり前感が「ヒメアノ〜ル」の怖さなのかも知れない。内面は外面に現れるのだろう。じゃ。

 

byアホウドリ

5年後の自分へ 〜ロックに生きろ〜

年、それは何かが変化するのに十分な時間だと思う。それまで不可能だった事が可能になるだけではなく、可能だった事が不可能にもなる。例えば赤ちゃんは歩けるようになるが、その一方で老人は歩けなくなる。

を重ねる事で起こる変化は良い事ばかりではない。病気が治る人がいる一方で病気になる人だっている。生まれる命がある一方で終わる命もある。

活が一変した出来事がある。以前ブログでも書いたが、私は頭に爆弾を抱えている。未破裂脳動脈瘤。脳の血管に血流が溜まりやすい所(瘤)がある。その部分(の血管)は引き伸ばされ薄くなっているので破れやすくなっているのだ。これが何かの拍子に破裂してしまうとかの悪名高い「くも膜下出血」を引き起こし3分の2の確率で社会復帰が困難になってしまう。だから、私はリスキーな日々を送っており5年後の未来なんて想像もできない。なんて自虐をするつもりはない。

レイ事かも知れない。しかし、未破裂脳動脈瘤の発見以後、それまで出来なかった事が出来るようになった。病気が発見された当初は日常生活に制限がかかると思っていたのに、寧ろ出来なかった事が出来るようになったのだ。これには少し矛盾や皮肉のような違和感があって面白い。でも、本当なのだ。大病を患った事のない人は頭のどこかで自分は元気に生き続けると思っている。私だってそうだった。でも、医者に面と向かって「貴方の頭には未破裂脳動脈瘤があり破裂すれば命を落とす可能性があります」と言われたとき、そんな甘い考えは消し飛び夢から目が覚めた。何故、自分なのだろうと。でも、当時の私は「こんなにも不摂生な生活をしているのに何故病気にならないんだ」と何処か頭の片隅で思っていた。だから、病気が発見されて納得してしまったのかも知れない。

その後、食生活から生活習慣を見直して脳以外の所は以前より健康な状態になっている。そして有意義な毎日を送っている。だから、5年後の自分に以下のメッセージを送りたい。

 

ックな日々を送っている5年後の私へ。君の頭の爆弾は破裂していないかい?もし健在ならば5年後の私へ同じメッセージを送って欲しい。もう、5年頑張ってみようぜと。じゃ。

 

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

【雑記】芸術に安全管理の概念はない

先日、痛ましい事故が起きた。東京・明治神宮外苑で行われたイベント「東京アートウィーク」の展示物(芸術作品)が炎に包まれて5歳の男の子が亡くなった。この展示物は木製でジャングルジムのような形をしており中には「木くず」が絡めつけられているものだった。火災は展示物の木くずに照明用のライトの熱が伝わり発生した。当初、展示物の照明にはLEDライトが使われる予定であったが事故当時は高温を発する「白熱電球」が使われていたそうだ。

 

同じ年頃の男の子を持つ親として本当に辛い事故だ。父親は自分の子供が炎に包まれる姿を見てどう思ったのだろうか。恐らく自分自身が焼かれるような気分だったのではないか。想像するだけでも辛い。心からご冥福を申し上げたい。

 

芸術は頭の中で浮かんだイメージを現実世界で表現しなければならない難しさがある。作り手からすれば殆どの場合、完成した作品はかなり妥協した結果だろう。無限の可能性がある創造と有限の資材で作る現実とのギャップが埋まる事はない。この辺りが芸術の奥深さだと思う。

そんな芸術作品に完全な「安全管理」を求める事は難しく、芸術作品と安全管理は対極に位置するものなのかも知れない。こう書くと芸術作品が危険なものと言っているように聞こえるかも知れないが、決してそんな事を言うつもりはない。ただ、芸術作品は安全管理の観点から見るとどうしても足りていない場合が多い。例えば今回の事故に関しても尖った部分がないかなどの規定を設けて安全性のチェックをしていたようだが、本来使うはずではなかった白熱電球を使って最悪の惨事を引き起こしている。これで安全管理をしていたといえるのだろうか。作り手は展示物を期間中に主催者の許可なく変更できないなどの規定も必要だったのではないか。もし、この規定があるのであればそれを作り手に周知させる事も安全管理の一環といえるだろう。

何処となく芸術には「安全管理の概念」を希薄に感じさせる響きがある。作品を安全に見せる事は主催者側の責任だとは思うものの、芸術作品には作り手にしか理解できない想いが込められている。要するに芸術作品は周りがとやかく指摘したり変更させずらい雰囲気を持っているのだ。他人からデザインや構造そして素材を変更される事で本来の意味を失ってしまうからだろう。

 

さっき何気なく息子の玩具を手にとってみた。じっくりと見てみるとそこに隠されている安全管理のアイデアに驚かされる。

この安全管理のなされた玩具こそ本当の芸術だと思う。じゃ。

 

byアホウドリ 

【雑記】11月7日はバナナの日ではない

11月7日といえば何・誰が生まれた日を想像するだろうか。はてなブログ?違う、マリ・キュリー(キュリー夫人)?違う、長瀬智也?違う、実は彼らの陰に隠れて生まれたもう一つの命がある。そう、私が生まれた日なのだ。齢37、これからも身分相応、質素に生きる所存でございます。

 

今朝、37歳という一般的にはオッサンに分類される年齢となってしまった。息子(4歳)から「パパ、おめでとう〜」とお祝いのバナナ(何故バナナ?)を手渡されるまでは自分の誕生日の事をスッカリと忘れていた。確かに私は忘れっぽい性格なので自分の誕生日や記念日をすっ飛ばす事はよくあるのだが、何故だかこの年齢になると自分自身より他人の方に興味が行ってしまうのだ。自分へのプレゼントを選ぶよりも他人のプレゼントを選ぶ方が時間をかけ金を使っている。不思議だ。私は一人っ子なので自分本位であった事は自覚しているつもりだが、年々そう行った考えが薄れてきて他人への興味が強くなりだした。多分、世代交代を意識する年齢になったのだと思う。おっそー。かつて剣道部を引退した後、久し振りに後輩を揉んでやるかと生半可な気持ちで練習に顔を出しフルボッコされた思い出と同じだ。それを誰からともなく自身で悟り、他人をたてるようになっただけの事だ。プロアスリートのように引退宣言をする事はないものの、気持ち的には全く同じだろう。私が力を注ぐべき相手は自分ではなく、若手(息子)になってきたのだ。

 

とはいえ、人生が終わるわけではないので悲観的になる必要はない。何故なら、これまで無色だった風景が急に色付いて見えるようになったからだ。お前のこれまでの人生って何だったのよ、というツッコミは胸にしまって頂きたい。ここ数年欠かさずに行っている紅葉狩り。かつては紅葉1、その後の宴会9のような割合で楽しんでいたのだが、今となっては逆転している。祖父が旅行に行くと景色ばかり眺めていた事が懐かしい。こうして徐々に年を取って行くのかと思うと、それすらも楽しみになる。

 

病気や怪我で体が不自由になった事がある人ならば分かるだろう、当たり前の有り難みが。この調子で年を重ねれば下手をすればアスファルトの隙間から咲くタンポポを見ただけでも泣いてしまうかもしれないし、死ぬ直前になると今息をしている事ですら世界中の人々に感謝するかもしれない。いやー、人って変わるものですね。

 

最後に私が好きなRADWIMPSの歌から人生の価値を伝えたい。

 

普通に生きて 普通に死ぬ それだけすごいことを普通にする

それだけで俺は特別 子宮から出てきた甲斐がある

(RADWIMPS「ヒキコモリロリン」より抜粋)

 

じゃ。

 

プレゼントby息子

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はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン 〜質問に答えてみた〜

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」に答えてみた。日常生活の97パーセントはパソコンやスマホで文章を入力しているが、残りの3パーセントはボールペンを使って書いている。たった3パーセント、されど3パーセント。私はどちらかというと道具にはうるさい方なので今回「良いボールペンが欲しい」という一点の曇りもない純粋な理由で応募する事に至った。さぁ、Q&Aを始めよう。

 

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

当ブログを開設する前、私は蓄膿症(慢性副鼻腔炎)で苦しんでいた。インターネットが普及した現在、ピピッとパソコンで検索をすると欲しい情報が得られると思っていたのだが決してそうではなかった。蓄膿症の概要や手術形式については各病院のホームページで紹介されているものの「手術体験記」なるものはとても少なく私が求めているようなものはなかったのだ。

もちろん、蓄膿症手術の体験記は存在していたのだが最終更新日は数年前という有様だった。ITと医療は日進月歩、かつての常識は今の非常識。少しでも蓄膿症手術の現状を伝えたい衝動に駆られて当時の私はペンを走らせたのであった。

 

2.ブログ名の由来を教えて!

ブログ名「或る阿呆鳥に呟く。」は世間に皮肉を撒き散らすために付けたタイトルである。

実は阿呆鳥という名前は「オキノタユウ」という鳥を阿呆な鳥と揶揄(馬鹿に)している呼び方なのだ。もともと彼らは外敵が存在しない島でのんびりと生息しており警戒することを知らなかった。人間を初めて見たときもテクテクと地上を歩きまわっていて、棍棒一つあれば楽々とオキノタユウを殺す事が出来たそうだ。だから、阿呆な鳥という事で阿呆鳥と呼ばれるようになってしまったのだ。

人間はオキノタユウの乱獲を続けた。しかし、乱獲をし過ぎた結果、オキノタユウの数が急激に減少してしまったので慌てて絶滅危惧種に指定するに至った。何もしていないオキノタユウに振り回されている人間の姿を想像すると滑稽だ。

一連の行動を考えれば阿呆なのはオキノタユウではなく人間だろう。私は敢えてオキノタユウを阿呆鳥と呼び罵詈雑言を呟く。オキノタユウは何も答えないが実はすべて見透かしている。自分を含めたすべての人に「物事を見誤っていないかい」と警鐘を鳴らしているのが当ブログの名前の所以である。

 

3.自分のブログで一番オススメの記事

やはり蓄膿症手術の体験記だろう。そもそも、ブログを書き始めるきっかけとなった出来事だから文章は下手なりにも頑張って書いた覚えがある。アクセスを解析するとそれほど参照されている記事ではないけれど実体験を嘘偽りなく書いたつもりなので読んでみて欲しい。きっと皆さんの人生観が180度変わるだろう。大袈裟。 

www.sakonet.jp

 

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

アウトプットの大切さ。人間社会で生きて行くには何かと溜まるのがストレス。それを溜め続けるのか何かで発散するのかは人それぞれだが、私の場合は「ブログを書く事」がストレス発散に繋がっていた。

私は文章を書く事が得意ではない、だからこそ、その行為が面白いのだろう。当初に書いた記事を後から読むと今の文体と違い面白い。ただひとつ変わらぬことは誠心誠意、本気で書いている事だろう。

 

5.はてなブログに一言

私はスマホ(アプリ)で記事を書いている。マメなバージョンアップありがとうございます。まだ、スマホはパソコンと比べて出来ることが限られているので今後のアップデートにも期待しております。じゃ。

 

【雑記】日本にはハロウィーンを受け入れるTPOがない

ハロウィーンはここ数年この季節になると芸能人のみならず我々一般パープルの間でも話題になるイベントだ。本来、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い払う意味合いのあるはずの祭りだが、日本では専ら仮装大会のような位置付けとされている。私はパーティーにこそ参加しないが仮装した人々を横目で見て楽しんでいる密かなハロウィーン支持者だ。もちろん収穫祭としての生い立ちを考えると日本のハロウィーンには少々違和感を感じざるを得ないものの、ストレス解消には良いイベントだと思うので一緒に楽しみたい。

しかし、毎年ハロウィーンの悪いニュースが目に付く。その殆どは夜通し騒ぐ、ゴミを放置する、トイレで化粧をするなどの迷惑行為だ。この手のイベントでは仕方がないのかも知れないが、どうしても素行の悪い人が目立ってしまう。是非とも仮装で目立って頂きたい。

ハロウィーン当日の昼、私は電車に乗った。私の地元は市内から少し離れた所にあり昼の電車内は静寂に包まれていた。車窓には自然溢れる風景が流れており、一瞬ではあるが仕事を忘れさせてくれるのだ。ある駅に到着、乗客は僅か数人程度。ドアが閉まり、何事も無く発車。また、穏やかな風景が流れ始めたのでぼんやり景色を眺めて…ん。なんだ。これは。なんつーか…く、臭い。木工用のボンドを大量に使ったような強い臭いが鼻につく。まさに異臭だ。乗客を見ると皆んなが同じような反応をしており、その視線の先にはハロウィーンメイクをバッチリした魔女が1人。こ、こいつか。鼻の穴を開いて嗅いでみると…確定!恐らく本人は自分のまとっているボンド臭に鼻をやられてしまっているのだろう、澄ました顔で荷物をまとめてキチンと座っている。一般的な電車マナーは完璧だ。しかし、平日の昼の電車で魔女が異臭を放っている存在感たるや凄まじいものがあった。それはUSJの帰りの電車でジョーズの帽子を被っている人やディズニーランドの帰りの電車でミッキー(耳)のカチューシャをしている人を見てしまったときのような残念な気分にさせられた。そう、要するにハロウィーンが流行っているとはいえ日本にはそれを受け入れるだけのTPO(時と場所と場合)が皆無なのだ。あちこちでボンド臭がしていれば気づかないようなものであってもスカスカの電車内で1人だけ魔女でボンド臭は可哀想だ。きっと私以外の乗客だって魔女を憐れんでいただろう。

他人の服装をとやかく指摘するつもりは毛頭ないが、臭いは別だ。最近、電車内で化粧をする女性を「みっともない」と警告するCMが話題になった。私も電車内での化粧は好きではないがそこまで目くじらをたてるほどではないと思う。むしろ、CMを作ってしまう方やそんなCMに過剰反応してしまう方がみっともないとさえ思っている。電車内での化粧なんて文字通り「目を瞑れ」ば良い。しかし、ボンド臭は辛い。目をつぶろうが届くのだ。私事で申し訳ないが今年の2月に副鼻腔炎の改善手術で鼻の中の骨を大々的に削っていて鼻通りが良い。それもあって臭いが嗅覚にジャストミートするのだ。

私は仮装した魔女は嫌いではない。いや、寧ろ好きだ。だからこそ、このキョーレツなボンド臭が残念でならない。魔女の魔法もボンド臭で吹っ飛んだよ。じゃ。

 

byアホウドリ