或る阿呆鳥に呟く。

~ジュニアテニス、映画、雑記、何でもありの備忘録〜

【雑記】芸術に安全管理の概念はない

先日、痛ましい事故が起きた。東京・明治神宮外苑で行われたイベント「東京アートウィーク」の展示物(芸術作品)が炎に包まれて5歳の男の子が亡くなった。この展示物は木製でジャングルジムのような形をしており中には「木くず」が絡めつけられているものだった。火災は展示物の木くずに照明用のライトの熱が伝わり発生した。当初、展示物の照明にはLEDライトが使われる予定であったが事故当時は高温を発する「白熱電球」が使われていたそうだ。

 

同じ年頃の男の子を持つ親として本当に辛い事故だ。父親は自分の子供が炎に包まれる姿を見てどう思ったのだろうか。恐らく自分自身が焼かれるような気分だったのではないか。想像するだけでも辛い。心からご冥福を申し上げたい。

 

芸術は頭の中で浮かんだイメージを現実世界で表現しなければならない難しさがある。作り手からすれば殆どの場合、完成した作品はかなり妥協した結果だろう。無限の可能性がある創造と有限の資材で作る現実とのギャップが埋まる事はない。この辺りが芸術の奥深さだと思う。

そんな芸術作品に完全な「安全管理」を求める事は難しく、芸術作品と安全管理は対極に位置するものなのかも知れない。こう書くと芸術作品が危険なものと言っているように聞こえるかも知れないが、決してそんな事を言うつもりはない。ただ、芸術作品は安全管理の観点から見るとどうしても足りていない場合が多い。例えば今回の事故に関しても尖った部分がないかなどの規定を設けて安全性のチェックをしていたようだが、本来使うはずではなかった白熱電球を使って最悪の惨事を引き起こしている。これで安全管理をしていたといえるのだろうか。作り手は展示物を期間中に主催者の許可なく変更できないなどの規定も必要だったのではないか。もし、この規定があるのであればそれを作り手に周知させる事も安全管理の一環といえるだろう。

何処となく芸術には「安全管理の概念」を希薄に感じさせる響きがある。作品を安全に見せる事は主催者側の責任だとは思うものの、芸術作品には作り手にしか理解できない想いが込められている。要するに芸術作品は周りがとやかく指摘したり変更させずらい雰囲気を持っているのだ。他人からデザインや構造そして素材を変更される事で本来の意味を失ってしまうからだろう。

 

さっき何気なく息子の玩具を手にとってみた。じっくりと見てみるとそこに隠されている安全管理のアイデアに驚かされる。

この安全管理のなされた玩具こそ本当の芸術だと思う。じゃ。

 

byアホウドリ 

【雑記】11月7日はバナナの日ではない

11月7日といえば何・誰が生まれた日を想像するだろうか。はてなブログ?違う、マリ・キュリー(キュリー夫人)?違う、長瀬智也?違う、実は彼らの陰に隠れて生まれたもう一つの命がある。そう、私が生まれた日なのだ。齢37、これからも身分相応、質素に生きる所存でございます。

 

今朝、37歳という一般的にはオッサンに分類される年齢となってしまった。息子(4歳)から「パパ、おめでとう〜」とお祝いのバナナ(何故バナナ?)を手渡されるまでは自分の誕生日の事をスッカリと忘れていた。確かに私は忘れっぽい性格なので自分の誕生日や記念日をすっ飛ばす事はよくあるのだが、何故だかこの年齢になると自分自身より他人の方に興味が行ってしまうのだ。自分へのプレゼントを選ぶよりも他人のプレゼントを選ぶ方が時間をかけ金を使っている。不思議だ。私は一人っ子なので自分本位であった事は自覚しているつもりだが、年々そう行った考えが薄れてきて他人への興味が強くなりだした。多分、世代交代を意識する年齢になったのだと思う。おっそー。かつて剣道部を引退した後、久し振りに後輩を揉んでやるかと生半可な気持ちで練習に顔を出しフルボッコされた思い出と同じだ。それを誰からともなく自身で悟り、他人をたてるようになっただけの事だ。プロアスリートのように引退宣言をする事はないものの、気持ち的には全く同じだろう。私が力を注ぐべき相手は自分ではなく、若手(息子)になってきたのだ。

 

とはいえ、人生が終わるわけではないので悲観的になる必要はない。何故なら、これまで無色だった風景が急に色付いて見えるようになったからだ。お前のこれまでの人生って何だったのよ、というツッコミは胸にしまって頂きたい。ここ数年欠かさずに行っている紅葉狩り。かつては紅葉1、その後の宴会9のような割合で楽しんでいたのだが、今となっては逆転している。祖父が旅行に行くと景色ばかり眺めていた事が懐かしい。こうして徐々に年を取って行くのかと思うと、それすらも楽しみになる。

 

病気や怪我で体が不自由になった事がある人ならば分かるだろう、当たり前の有り難みが。この調子で年を重ねれば下手をすればアスファルトの隙間から咲くタンポポを見ただけでも泣いてしまうかもしれないし、死ぬ直前になると今息をしている事ですら世界中の人々に感謝するかもしれない。いやー、人って変わるものですね。

 

最後に私が好きなRADWIMPSの歌から人生の価値を伝えたい。

 

普通に生きて 普通に死ぬ それだけすごいことを普通にする

それだけで俺は特別 子宮から出てきた甲斐がある

(RADWIMPS「ヒキコモリロリン」より抜粋)

 

じゃ。

 

プレゼントby息子

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はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン 〜質問に答えてみた〜

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」に答えてみた。日常生活の97パーセントはパソコンやスマホで文章を入力しているが、残りの3パーセントはボールペンを使って書いている。たった3パーセント、されど3パーセント。私はどちらかというと道具にはうるさい方なので今回「良いボールペンが欲しい」という一点の曇りもない純粋な理由で応募する事に至った。さぁ、Q&Aを始めよう。

 

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

当ブログを開設する前、私は蓄膿症(慢性副鼻腔炎)で苦しんでいた。インターネットが普及した現在、ピピッとパソコンで検索をすると欲しい情報が得られると思っていたのだが決してそうではなかった。蓄膿症の概要や手術形式については各病院のホームページで紹介されているものの「手術体験記」なるものはとても少なく私が求めているようなものはなかったのだ。

もちろん、蓄膿症手術の体験記は存在していたのだが最終更新日は数年前という有様だった。ITと医療は日進月歩、かつての常識は今の非常識。少しでも蓄膿症手術の現状を伝えたい衝動に駆られて当時の私はペンを走らせたのであった。

 

2.ブログ名の由来を教えて!

ブログ名「或る阿呆鳥に呟く。」は世間に皮肉を撒き散らすために付けたタイトルである。

実は阿呆鳥という名前は「オキノタユウ」という鳥を阿呆な鳥と揶揄(馬鹿に)している呼び方なのだ。もともと彼らは外敵が存在しない島でのんびりと生息しており警戒することを知らなかった。人間を初めて見たときもテクテクと地上を歩きまわっていて、棍棒一つあれば楽々とオキノタユウを殺す事が出来たそうだ。だから、阿呆な鳥という事で阿呆鳥と呼ばれるようになってしまったのだ。

人間はオキノタユウの乱獲を続けた。しかし、乱獲をし過ぎた結果、オキノタユウの数が急激に減少してしまったので慌てて絶滅危惧種に指定するに至った。何もしていないオキノタユウに振り回されている人間の姿を想像すると滑稽だ。

一連の行動を考えれば阿呆なのはオキノタユウではなく人間だろう。私は敢えてオキノタユウを阿呆鳥と呼び罵詈雑言を呟く。オキノタユウは何も答えないが実はすべて見透かしている。自分を含めたすべての人に「物事を見誤っていないかい」と警鐘を鳴らしているのが当ブログの名前の所以である。

 

3.自分のブログで一番オススメの記事

やはり蓄膿症手術の体験記だろう。そもそも、ブログを書き始めるきっかけとなった出来事だから文章は下手なりにも頑張って書いた覚えがある。アクセスを解析するとそれほど参照されている記事ではないけれど実体験を嘘偽りなく書いたつもりなので読んでみて欲しい。きっと皆さんの人生観が180度変わるだろう。大袈裟。 

www.sakonet.jp

 

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

アウトプットの大切さ。人間社会で生きて行くには何かと溜まるのがストレス。それを溜め続けるのか何かで発散するのかは人それぞれだが、私の場合は「ブログを書く事」がストレス発散に繋がっていた。

私は文章を書く事が得意ではない、だからこそ、その行為が面白いのだろう。当初に書いた記事を後から読むと今の文体と違い面白い。ただひとつ変わらぬことは誠心誠意、本気で書いている事だろう。

 

5.はてなブログに一言

私はスマホ(アプリ)で記事を書いている。マメなバージョンアップありがとうございます。まだ、スマホはパソコンと比べて出来ることが限られているので今後のアップデートにも期待しております。じゃ。

 

【雑記】日本にはハロウィーンを受け入れるTPOがない

ハロウィーンはここ数年この季節になると芸能人のみならず我々一般パープルの間でも話題になるイベントだ。本来、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い払う意味合いのあるはずの祭りだが、日本では専ら仮装大会のような位置付けとされている。私はパーティーにこそ参加しないが仮装した人々を横目で見て楽しんでいる密かなハロウィーン支持者だ。もちろん収穫祭としての生い立ちを考えると日本のハロウィーンには少々違和感を感じざるを得ないものの、ストレス解消には良いイベントだと思うので一緒に楽しみたい。

しかし、毎年ハロウィーンの悪いニュースが目に付く。その殆どは夜通し騒ぐ、ゴミを放置する、トイレで化粧をするなどの迷惑行為だ。この手のイベントでは仕方がないのかも知れないが、どうしても素行の悪い人が目立ってしまう。是非とも仮装で目立って頂きたい。

ハロウィーン当日の昼、私は電車に乗った。私の地元は市内から少し離れた所にあり昼の電車内は静寂に包まれていた。車窓には自然溢れる風景が流れており、一瞬ではあるが仕事を忘れさせてくれるのだ。ある駅に到着、乗客は僅か数人程度。ドアが閉まり、何事も無く発車。また、穏やかな風景が流れ始めたのでぼんやり景色を眺めて…ん。なんだ。これは。なんつーか…く、臭い。木工用のボンドを大量に使ったような強い臭いが鼻につく。まさに異臭だ。乗客を見ると皆んなが同じような反応をしており、その視線の先にはハロウィーンメイクをバッチリした魔女が1人。こ、こいつか。鼻の穴を開いて嗅いでみると…確定!恐らく本人は自分のまとっているボンド臭に鼻をやられてしまっているのだろう、澄ました顔で荷物をまとめてキチンと座っている。一般的な電車マナーは完璧だ。しかし、平日の昼の電車で魔女が異臭を放っている存在感たるや凄まじいものがあった。それはUSJの帰りの電車でジョーズの帽子を被っている人やディズニーランドの帰りの電車でミッキー(耳)のカチューシャをしている人を見てしまったときのような残念な気分にさせられた。そう、要するにハロウィーンが流行っているとはいえ日本にはそれを受け入れるだけのTPO(時と場所と場合)が皆無なのだ。あちこちでボンド臭がしていれば気づかないようなものであってもスカスカの電車内で1人だけ魔女でボンド臭は可哀想だ。きっと私以外の乗客だって魔女を憐れんでいただろう。

他人の服装をとやかく指摘するつもりは毛頭ないが、臭いは別だ。最近、電車内で化粧をする女性を「みっともない」と警告するCMが話題になった。私も電車内での化粧は好きではないがそこまで目くじらをたてるほどではないと思う。むしろ、CMを作ってしまう方やそんなCMに過剰反応してしまう方がみっともないとさえ思っている。電車内での化粧なんて文字通り「目を瞑れ」ば良い。しかし、ボンド臭は辛い。目をつぶろうが届くのだ。私事で申し訳ないが今年の2月に副鼻腔炎の改善手術で鼻の中の骨を大々的に削っていて鼻通りが良い。それもあって臭いが嗅覚にジャストミートするのだ。

私は仮装した魔女は嫌いではない。いや、寧ろ好きだ。だからこそ、このキョーレツなボンド臭が残念でならない。魔女の魔法もボンド臭で吹っ飛んだよ。じゃ。

 

byアホウドリ

 

【雑記】僧侶・JK・援交・偽札

愛知県の僧侶(28)が女子高校生(以下「JK」という)に援助交際の見返りとして偽札を手渡し逮捕されるというファンキーなニュースが飛び込んできた。この犯行が明るみに出た発端はJKが受け取った偽札を薬局で使い店員に指摘された事らしい。もし、僧侶が本物の紙幣で対価をお支払いをしていたら「JKとの援助交際」という完全犯罪は出来上がっていたかもしれない。そうなれば今の今もJKと…な関係は続いていたのかと邪推をしてしまった。私は36歳の大人。毎日、電車では「JKに触れないゲーム」を強要され、もし触れようものなら場合によっては即座に人生がゲームオーバーという激ムズな日常を送っている。なのに僧侶ときたら…。チキショウ。

まぁ、私の日常はこれ位にしておいて、兎に角突っ込みどころの多い事件だと思う。私は僧侶とJK、援交、偽札なんて決して交わることのないものだと思っていた。でも、よくよく考えてみると僧侶だって人間、神に仕える者なのかもしれないが神ではないのだから。欲や良からぬ事を考える事だってあるだろう。しかし、何故あの日あの時、偽札でお支払いしたのか残念でならない。(皮肉)

チンパンジーな脳の持ち主である私は「僧侶」という単語を聞くとゲーム・ドラゴンクエストの職業を思い出してしまう。僧侶は回復魔法を始め攻撃魔法も使え攻守ともに冒険に欠かせない職業なのだ。僧侶さえいれば体力の回復から毒など状態異常の解消、極め付けは死んだ人間を生き返らさせ、戦況を一気に立て直す事だってできるだろう。まさに最後の希望なのだ。

私はこの援交僧侶はJKの経済的な諸事情(戦況)を理解し、神に仕える者として職責を全うしたのだと思う。この僧侶を村上春樹風に表現するのであれば「僧侶である僕はこの貧困に喘ぐJKを抱かなくちゃいけない。それは今しかないんだ。やれやれ。僕は溜息をついてそっと彼女の手に偽札を握らせた」なんて調子で勝手にトントン拍子で事を進めてしまったのだろう。(邪推)

話が脇道に逸れてしまった。つまり、今回の援交僧侶は僧侶という仕事をしているただの人間なのだからドラクエのように最後の希望という訳ではない。うむ。これ以上僧侶の印象が悪くならないようドラクエを例え話に出してみたがイマイチ説得力に欠ける内容になってしまった。すまない。じゃ。

 

PS.最後にはっきりと申し上げるが決して援交僧侶が羨ましくてこの記事を投稿した訳ではない、はず。

【雑記】爆死する老人

殺人、傷害、強姦、窃盗、各種犯罪がマスメディアを賑わしている今日この頃。どんな犯罪でもメディアを通した分、現実味が薄れ我々第三者は「あぁ、またか」と呟いてしまう。結局は別の世界で起こった出来事なのかも知れない。

 

宇都宮市の元自衛官(72)が爆死をしたそうだ。本人の遺体はバラバラとなって無残に飛び散り、無関係の人間をも巻き込む惨事となった。いや、むしろ警察の調査が進むにつれて無差別テロのように「人を巻き込むため」に爆死という死を選んだ事が分かってきた。どうも家庭事情のもつれが惨劇の発端になっているらしいが正直阿呆らしいと感じた。きっと現状に悩んだ挙句の行動だったのだろうが、それが何故他人を巻き込む爆死になるのか。この手の人間の思考は常人では想像できない回路で動いていると思うのだが兎に角阿呆らしい死に方だ。

 

私はすべての自殺を否定するつもりはない。しかし、それが起こってしまった背景に着目するべきだと思っている。それは、決して自殺は当事者だけに問題があるのではなく様々な外的要因により自殺という最悪の結果を選択せざるを得ない状況に陥る事があるからだ。

しかし、今回の事件は不条理で理不尽で納得のいかない結末だ。怒りの矛先を自分だけではなく、赤の他人にも向けてしまった老人の身勝手な行動が私をやるせない気持ちにさせた。老人は犯行前、先祖の墓を訪れていたらしい。先祖(死んだ人間)に頼り、生きている人間を殺そうとするなんて馬鹿げている。異常。この老人の大義は爆弾で他人を巻き込んで自殺する事だったのか。これまでの人生もろとも爆破するなんて余程つまらない人生だったのだろうかと想像してしまった。

 

昔、道徳の授業で自殺について考えた事がある。

 

自分の体なのに何故、殺してはいけないのか。

 

周りに迷惑をかけるから。

誰にも迷惑をかける事なく樹海で死ねば良いのか?

残された人間が悲しむから。

残された人間がいなければ良いのか?

 

いくつか意見が出た。でも、結局答えは出なかった。

 

しかし、先日見た海外ドラマで気になる言葉を発見した。男性が生きる事から逃げつつあった少女に言った言葉だ。

 

愛する人たちが今の君を作った。君の一部だ。自分を捨てたら君の中に宿った彼らも消える。(「ウォーキング・デッド」より)

 

人間は多くの人に助けられて成長する。助けてくれた人々は自然と自分の一部となり形成される。だから、自分で自分を殺す事は助けてくれた人たちを殺す事にも繋がる。私はそう受け止めた。

 

結局、今回の爆破の被害者は老人や老人の人生、そして赤の他人だけではなく、これまで老人を支えてくれた多くの人間にも及んでしまったのだろう。じゃ。

 

byアホウドリ

【雑記】絶景は無料(タダ)では手に入らない〜琵琶湖テラス〜

ストレスのない世界で生きたい。身も心も大人になってしまった私は日々安住の地を求めていた。しかし、それは何と日本の中心にほど近い場所にあったのだ。

その場所の名は琵琶湖テラス

今回は大いなる自然を堪能できる安らぎの場所を紹介しよう。絶景を金で買う、これこそ私が憧れていた大人の姿だったのかも知れない。大嘘。

それではいってみよう。

 

概要(琵琶湖テラスって何?)

琵琶湖テラスは2016年夏にオープンしたばかりの「びわ湖バレイ」 の山頂にあるテラスの事だ。琵琶湖を一望できる絶景スポットとして各種メディアで紹介されている。

www.biwako-valley.com

 

スポット

まさに絶景であった。これは公式ホームページに掲載されている写真からもお分かり頂けるだろう。しかし、決してホームページやそこの写真だけでは伝えきれないものがある。それは現地でしか感じることの出来ない空気や風、雰囲気などの天然素材だろう。こういったものは金銭さえ払えば必ず得られるものではなく、その日の天候状態などの不確定要因によって左右される。つまり、その瞬間にしか存在しない。だからこそ現地に行く価値があるのだと思う。

私は夏の暑い日に琵琶湖テラスに行った。空は晴天、風は微風、そして何より温暖な気候であった。山の麓に車を停め、ロープウエイ乗り場までゆっくりと歩く。我が家には4歳になる息子がいるのだが、この年齢の子供でもそれほど苦労する事なくロープウエイ乗り場までたどり着けた。そして、切符を購入し、いざ琵琶湖テラスへ!と家族3人意気揚々とゴンドラに乗り込んだ。

 

しかし、我々は山を侮っていた。山頂が近づくにつれて、濃霧が我々のゴンドラを囲みだしのだ。さらには激しい暴風と寒波。静まり返るゴンドラの中。

着いた!が、先が見えない!笑。


あのホームページの絶景は何処へやら。ロープウエイを降りた乗客はそれぞれの思いを胸に歩き出した。そんな彼らの背中も暫くすると濃霧の中に消えてゆく。あっという間に周りには誰もいない世界が広がっていた。遭難したかな?と若干不安に思ったのは内緒だ。

足が震えていた。これはテラスからの眺望に足元が竦んだのではない、ただ単に寒いのだ。季節が分からなくなってしまった。秋冬春に行かれる方は防寒着を持っていく事を忘れないで欲しい。

今日という日に来てしまった事を激しく後悔した。それは私たち家族だけではなく、他の観光客の表情からも見て取れた。落胆が

 

確かにロープウェイの切符売り場の人は「山頂には多少の霧が出ている」と言っていた。多少ね。

 

しかし、奇跡が起こった。暫くすると徐々に霧が晴れて来たのだ。まだ暗い。

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そして小一時間後、琵琶湖が見えた、しかも綺麗に!

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一瞬でも琵琶湖テラスを来た事を悔やんだ自分を恥ずかしくなる眺望。ストレスフリー。ちなみに撮影ポイントは沢山あるので綺麗な風景を落ち着いて写真に収める事ができる。

 

こちらは「恋人の聖地」というスポットからの眺望。晴れていると気持ちいい。

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そして、私は敢えて少しはなれたこのスポットが気に入った。良い眺めだろう。


琵琶湖テラスの眺望は素晴らしい。でも、これだけで満足してはいけない。琵琶湖テラスをもっと楽しみたい方には大自然の中に作られたスカイウォーカーやジップラインをお勧めしよう。スカイウォーカーは4歳の息子でも体験できるキッズコースもあるので小さい子供がいる家庭でも楽しめる。
そして、琵琶湖テラスにはハイキングコースもある。普段の散歩とは違い山を体感できるのでこちらもお勧めだ。
さらには無料の手作りアスレチックや有料のそり滑り、ザリガニ釣りと様々なイベントがあり時間を忘れて楽しめる。季節によってイベントは変わってくるので事前チェックはお忘れなく。
折角行くのだから、テラスからの眺望だけを楽しむのではなく、家族でアトラクションに興じてみるのも面白いだろう。
さぁ、今回は絶景を買ってみた。きっと夫婦、恋人、友達、どんな人と行っても楽しめるので琵琶湖テラスはお勧めだ。

 

最後に

大満足。しかし、ロープウエイと昼食(バイキング)の料金が高かった。少し節約するのであれば琵琶湖テラスのレストランを利用せずに昼食持参でピクニック気分で行くのもアリだと思う。 さぁ、今週末は琵琶湖テラスへ行って気分をリフレッシュしよう。

以上

byアホウドリ


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